「勝手に映画ネチズン」#250, 1999年2月11日
解き放たれた心で座席にもたれよ

ソクーロフの誘惑

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 ミートローフは、知っていても、ソクーロフは知らない。

 また、足労(そくろう)という言葉は知っていても、ソクーロフについては、なんにも知らない。

 そういう人のために、ちょっとばかし、MEET ALEXANDER SOKUROV!
 ふふふ、ブラッド・ピット風に訳せば、「アレクサンドル・ソクーロフを よろしく」ですねん。

 ご足労とは存じますが、知ってやってください。

 まずは、ユーロスペース制作のチラシによると。

 フィルムとビデオ、ドキュメンタリーと劇といった手法やジャンルを超えて、旺盛に創作活動を続ける現代ロシアの鬼才アレクサンドル・ソクーロフ。
 彼は、常に新たな映像世界を切り開き、映画にとどまらず、世界のアート・シーンに衝撃を投げかけてきた。
(CHEW略)
 難解と評されることも多いソクーロフ作品だが、緊張画面と、透明感のある音楽や不思議な現実音とのハーモニーから、感に満ちた静かな滲み出るエロティシズムに、その身上の源はある。
 解き放たれた心で座席にもたれるなら、きっと、すっぽり包み込まれるような安堵感を覚えるだろう。



 ん? ん? ん?
「緊張画面と、透明感のある音楽や不思議な現実音とのハーモニーから、感に満ちた静かな滲み出るエロティシズムに、その身上の源はある。」

 まるで偽大江健三郎が書いたコピーみたい。いえ、大江は、もうすこし難解かな? ははははは。

 それで、とりあえずは、彼のバイオグラフィを。
 なぜかというと、ソクーロフは、君の精神に、これまでにない輝きをプラスするバイアグラだからです。

(注)制作年度が2つ表示されているものは、最初が制作年で、あとのほうは、上映禁止解除により公開された年です。

 このなかで、一般の人(二般の人というのも、いる? ネハンの人はいるけれど?)が視聴に耐えられるのは、「日陽はしづかに発酵し・・・・」くらいなものかなあ。

 んじゃ、残りは?
 「ワタシにとって、映画とは、娯楽なんかではありません」とためらいがちに断言できる人専用。
 内省的、内面的、詩的、実験的な作品に、偏執的な愛情を注ぐことのできる人専用。

 なにしろソクーロフは、「アメリカ映画は、映画ではない」なーんて、イケシャーシャーとした発言を躊躇しない人ですから、ね。
 いくらソクーロフびいきのぼくでも、「そこまで言うのは、按摩りだ」。マッサージしてもらうなら、アンナ・マデリーナ。

 しかし、だからこそぼくは、いささかも観客にコビルことのない厳然毅然とした彼の作家としての姿勢に、とめどなくひかれていくのです。

 ほらほら、オモシロイだろ? 退屈なんかしないだろ? ワクワクするだろ?
 まるで、わがままな駄々っ子をあやすかのごとくに、無節操に面倒見のいい映画。ようは、それによって、儲けたいだけのことなのに。

 そりゃ、儲けていいんです。
 生きるためには、金がいるし、愛もいる。愛を発揮すためにも最低限の金がいります。
 娯楽だって、必要です。どポルノも必要。FUCKも必要。オピウムだって、必要だからこそ、流通しているのでしょう。

 でも、でもね。

 映画を、単に快楽だけのための道具にはしたくない! という人も、存在すべきです。

 ただね。

 快楽は大衆の支持を容易に獲得できるけれど、「非・不快楽」は、難しい。存在の耐えられない難しさです。
 ミラン・クンデラの意見やいかに?

 タルコフスキーのビデオを貸してあげた友人の多くは、カウチポテトで眠くなりました。
 ソクーロフも、きっと、同じような運命を辿るんだ。いや、もしかしたら、もっと深刻かもしれない。

 しかし。

 人は、パンと快楽によってのみ生きているのではない!・・・・・・ということを、清らかに自覚するために、せめて3本くらいは、ソクーロフを見てほしいのです。

 そこにいる君! あそこにいない君! 解き放たれた心で、座席にもたれてください。

 この夏、ソクーロフは、君を誘惑します。

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