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『キプールの記憶』
監督アモス・ギタイ
イスラエル・フランス・イタリア合作
配給アルシネテラン(03-5467-3730)
11月シャンテシネほかにて公開
アモス・ギタイはイスラエルの監督。
ナチスなどの迫害を逃れて当時のパレスチナに渡ってきた建築家の父と、理想の国家を建設する希望に燃えてやってきた心理学者の母とのあいだに生まれ、双方の歴史や心情を背負いつつ、主として民族離散(ディアスポラ)を主題としながら、だが民族主義をはるかに超えるスケールの大きな視野を持つ硬派の作品で知られる。
(イスラエルで上映禁止になるような作品をつくるかと思えば、本作はイスラエル大使館後援。とにかく枠にとらわれず幅が広い)。
日本ではイスラエル映画がほとんど見られず、彼の作品も、東京国際映画祭やイスラエル映画祭、アテネフランセでの自主公開などでしか紹介されてこなかったが、世界的に注目を集める鬼才だ。
彼は23歳のとき、1973年の第4次中東戦争で、負傷兵を救出してヘリで後方に輸送する任務に従事、ヘリが爆撃されて九死に一生を得る体験をする。
それは彼につきまとう重大な主題となり、ドキュメンタリーにもまとめられているが、改めて昨年、ドラマとして壮大な規模でつくりあげたのがこの『キプールの記憶』。キプールというのは、ユダヤ教の聖日ヨム・キプールのこと。この日に第4次中東戦争がはじまったので、この戦争は別名キプール戦争とも呼ばれる。
これは戦争映画だが、なんとも不思議な戦争映画だ。
負傷者の救出場面が主なので、直接の戦闘シーンはほとんどない。それでいて、戦争の恐怖、虚しさが、苦しいほど切迫してくる。救出するにも負傷者を持ち上げられない、どころか、救出者たち自身も足を上げることの出来ない果てしないぬかるみ。弾の飛んでくる中での担架の重さ。ヘリの定員を越える場合や、敵が迫っている場合など、まだ息のある兵士を助けられないこともある。
長回しのカメラが、そんな凄まじい状況に飲み込まれてゆく兵士たちを、じっとみつめる。敵や味方などを超越した、生と死へのまなざし。なんと理屈をつけようが戦争とは殺し合い、憎しみ、殺人でしかないことの、冷厳なあぶり出し。重い。だがその画面にみなぎる力強い訴えには、全身全霊を揺さぶりたてられ、圧倒される。
私は恥ずかしいくらい有名な政治音痴。でも、オスロ合意(イスラエルとパレスチナが和平の方向でやっていこうという話し合い。
でも当時の和平派の首相が暗殺されて、イスラエルはこの合意を反故にし、ブッシュはそれを見て見ぬふり)すら知らずに(と国会答弁で言ってた、よね)、つまり今度のテロ事件がおきた背景を無視して、戦争大好きでその口実が出来て大喜びしているみたいな、むやみに合衆国に迎合してはしゃいでいる首相にはぞっとする。
とは言え、アンナ首相が出来たのも、世界に「欧米文化という理想」しかないと思い込み、それ以外の文化に対する想像力がまるでない、私たち自身の責任。映画についてだって私たちはつい、世の中にはハリウッド映画しかない、フィンランド映画とかトルコ映画とかイスラエル映画とかは存在しない、みたいな「強制的ハリウッド映画主義」に陥りがち。イスラエルの監督自身が、もう戦いはいやだと言明するこの映画で、そういう「私たちの内なる無意識の他者無視」を撃とう!
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