小川紳介の名は、死後10年を経た現在でも、日本の記録映画史の最高峰に耀く。60年代から70年代にかけての、『日本解放戦線・三里塚の夏』など、常にカメラが最前線で機動隊と対峙する緊張と生々しさに溢れた三里塚闘争の記録映画。
そして70年代後半からは、山形に住み着いての『ニッポン国古屋敷村』や『1000年刻みの日時計 牧野村物語』などの稲作と農村の古伝説・新伝説(主として第二次世界大戦が残した傷跡)の記録。
だが、彼はもちろん一人で映画をつくったわけではなく、撮影者の田村正毅をはじめ、山形の一軒家で共同生活しながら、農業と映画作りをともにした同志たちがいた。
「無名性に徹しよう」とスタッフ名を映画にクレジットしなかったが、その結果、小川本人の名だけは高くなる。さらに、支援者やスタッフに受けのいいように経歴を詐称していた、スタッフの人格を認めずに使い捨てたなど、内情はけっしてきれいごとでなく、離れていったもの、今も否定的な感情を持つものもいる。ことに女性たちは、撮影隊に参加することは出来ず、台所仕事だけだった。
「三里塚の農婦たちの運動を評価し推進もした小川プロなのに、内部では男女の役割を分けている」ことが、彼女たちに与えたストレスの強さ。
たぶん日本では、誰もが小川の名の大きさにひるんで手をつけることのできなかった、この小川プロの内部に、合衆国の60歳の女性記録映画作家バーバラ・ハマーが分け入る。
証言を拒む人々や、小川への敬愛からこの映画の製作に拒否感を表明する映画人も多かったが、ハマーは持ち前のパワフルな粘り強さで完成にこぎつけた。ことに、女性たちの負わされた「役割分担」への見直しは、小川プロというより労働運動・全共闘運動を含めて日本の男性たちが今までずっと気づいてこなかった(まだ気づいていない男性もいっぱいいる)視点だ。
だがこれは、小川への個人攻撃とか「神話崩し」などでは、まったくない。「あんな目に遭ってもみんな耐えたのはやはり小川さんが偉大だったから」という言葉が何度も出る。「あれは、一種の宗教だった」という証言もあれば、「全然宗教なんかとは違う」という証言もある。
ハマーは誠実に淡々とそれらの言葉を画面に収めてゆく。小川の映画作りは、最初から「普通」ではとうていできないものであり、さまざまの無理や葛藤を伴ったのは当然で、そこにこそ、「普通」の人なら諦めて途中で逃げ出すだろうそれら凄まじい犠牲の上に最後まで敢然と映画をつくりつづけた、小川の大きさも浮かび上がってくる。
噴出する小川への批判や怒りを一身に受け止めるのは、小川のパートナーだった白石洋子だ。だが彼女は、ときに涙目になりつつも、懸命に小川の理想を訴えつづける。
小川が白石を認めれば認めるほど、女性が上に立つのを嫌う男たちからは「江青女史」とあだ名され、「使い捨て」の他の女性スタッフとも連帯しにくい立場だった彼女。実際に(たぶん自分ではそれと気づかずに)権力を振り回すことがあったのかもしれないが、これは本当に難しい立場であり本作での彼女の「逃げない」勇気には感動を覚える。