岐阜県・根尾谷の薄墨桜

                                                                  
 今年の桜は平年よりも1週間ほど遅かった。私の住む町内会は毎年4月の第1日曜日に2ヘクタールほどの面積を持つス
ポーツ公園で花見会を行っているが、今年はつぼみの下での催しになってしまった。
  職場には勤続10年毎マイプラン休暇と名付け、強制的に5日以上の連続した有給休暇を取らせる制度がある。有給休暇
以外に特別の休暇として5日を付与すればと思うのだが、本来自由であるべき有給休暇取得の理由を制限する以外の何もの
でもなく、毎年度末近くになるとマイプラン休暇は完全消化させろと執拗におふれが回ってくる。
 昨年丁度勤続30年だった私にもその消化が義務づけられ、11月に紅葉の京都を訪ねる計画をたてていた。
 これの前、9月に受けた人間ドックで便に潜血が見えるから精密検査を受けろと言われていたのを思い出し、気楽に近所
の消化器科で大腸内視鏡検査をうけたところ、検査の中でポリープ数個が発見され焼烙切除を行った。何の痛みもなく、医
師から特に生活上の注意など一言もなく帰宅したが、夜半から猛烈な腹痛が襲ってきた。持病の尿路結石で投薬を受けてい
る痛み止めの座薬を用いて短時間の眠りにつけたが、翌朝は痛みに発熱が加わった。医者に電話すればすぐ来院せよとの返
事。診断の結果は腹膜炎、ポリープを取ったところから穿通し腹膜炎を起こしているらしいとの説明で、紹介された入院施
設のある病院に行ったところ即入院で、完治するまで約3週間を要すと言われ、敢え無く京都の紅葉は見ることなく心の中
で散り落ちた。
 マイプラン休暇の5日間は某かが言った「病気入院の休暇は手続きが面倒だから、この入院休暇をマイプラン休暇にしちゃ
いませんか」に、勝手にしやがれと放棄した。

 年も改まり4月になると今度は桜の京都がテレビコマーシャルに登場しはじめた。京都をじっくり楽しむとなれば1泊や
2泊では足りない。できるなら奈良へも行きたい。しかし5日間も休める状況ではない。
 焼津の当目浜にある親水公園でキャンプをしているとき、ふと薄墨桜のことが頭に浮かび、福井県に接する岐阜県根尾村
にある桜の巨樹を見に行こうと心に決めて帰宅し、明後日薄墨桜を見に行くと妻に告げた。

 おりしも九州は宮崎県で口蹄疫という偶蹄類に感受性があり、極めて伝染力の強い病気が明治以来90余年ぶりに発生し、
畜産業界では蜂の巣をつついたような騒ぎで、私の職場からも応援要請に基づき宮崎へ獣医師を派遣する一方、県東部の牛・
豚の健康チェック、輸入飼料の追跡調査などで連日農家回りを行わせている状況下に2日の有給休暇を取った。

 根尾村は名神高速道路の岐阜羽島インターか大垣インターから北上した所にある。当目浜のキャンプに行った際スリップ
音で気づいたファンベルトのゆるみをデーラーで直す必要があり、早朝出発の予定が3時間ほど遅れた。犬の三太と猫のミ
ミが同行するのは昨年10月の天城山から伊豆西海岸の1泊旅行以来だ。
 東名高速道路沿線からは満開のソメイヨシノがあちこちに見られる。三太は車に乗ると緊張するせいか尿意を我慢できな
い。躾を何回か試みたが全く効果がないため、最長でも1時間毎にはパーキングへ寄り排尿させなければならない。しかし
これも必ずあるパーキングの桜見物ができ今回は腹も立たない。
 岐阜羽島インターチェンジを出てから数分で長良川の堤防道路に出る。秀吉ゆかりの一夜城までの間、放水路を挟んだ対
岸の土手は見事な桜が数キロの距離延々と続く。機会があれば是非ゆっくりと端から端まで歩いてみたい場所だ。
 対向車に大型バスが多くなる。15時ともなれば薄墨桜見物を終えた団体旅行が帰路につく頃だ。人混みが嫌いな性分の
私にとってこれはありがたい。早瀬が目立ちはじめた根尾川に赤い欄干の橋が見えるとそこが薄墨桜のある公園の入り口だ
った。駐車場から桜は見えない。無粋なテントの土産物売場が並ぶ坂道を登ること4・5分で眼前にピンクの霞がかかった
ような樹齢1400年とも1500年とも言われ、数々の樹勢回復術を施され蘇った薄墨桜が眼前に現れた。
 決して動くことのない「老木」であるが、その姿は何ものをも圧倒する生命・躍動感を放つも裂けた本幹、数々の支柱に
悲壮感も感じ、薄桃色の蕾みに楚々とした風情を醸し出す不思議な桜だった。
 身内の殺戮をも伴った皇位継承の争いの中に身を置いた人物の手植だという伝説に人心が宿っているのではと思いは巡った。
 ほとんどがピンクの蕾みでちらほらと咲いた花は小さく、白に近く富士桜のように下を向いている。ベンチに座り夕日に
照らされる姿にしばらく見入っていた。

 薄墨桜から5kmほどのところに町営の薄墨温泉がある。入浴料はタオル付きで大人1,000円。立派なホテルも隣接し、色
々な体験館もあるようだった。露天風呂、寝湯、うたせ湯、五右衛門風呂、ジャグジー、サウナと今やどこの日帰り温泉で
も定番の施設がある。
 根尾村には5カ所ほどキャンプ場があるが、このシーズン営業しているのは町営のNEOキャンプランドだけ。温泉の事務
所から念のため利用可能か電話で聞いてもらい、道順も教えてもらった。樽見鉄道の終点樽見駅前を通過し418号線、一般
道と走ること20分ほどでキャンプ場へ到着。一部工事中のキャンプ場は10戸ほどのコテージと約100のオートキャンプ
サイトからなり、能郷白山からの雪解け水が流れる川沿いにある。
 周辺の山の北面には残雪があり、炊飯棟の水は手が切れるほど冷たい。キャンパーは言うまでもなく我々のみ。受付でも今
日は他に誰も利用者はいませんからどこでも適当に入って下さいと言われた。
 実はこのキャンプ場はペット連れ禁止であったが、他に誰も客がいないこと車から出さないことを条件で特別にOKしてい
ただいた。とは言っても三太の尿意は長くは持たないため、車から河原までは抱きかかえて連れて行き用を足させた。
 物音一つしない久しぶりの夜、ビールとパエリアの食事で19:00にはシュラフの中へ、12時過ぎにサンタを連れだし
たとき遠くの山でムササビの鳴き声が聞こえた。

  翌朝、サイトの芝生も炊飯棟の屋根も車の屋根も霜が降りて真っ白。残雪の山を見て霜が降りても驚かない心構えは出来て
いた。パンの朝食を済ませ、前夜の食器を洗い、朝日の薄墨桜を見ておこうと9時出発。
 駐車場へ行くと桜に近いところが空いているにもかかわらず、遠い所へ入れと誘導員が言う。なぜだと聞けばイベントがあ
ってそれの参加者用に開けてあると言う。癪に障ったので「女房の足が少々不自由だ」と告げると、上に駐車スペースがある
と教えてくれた。
 前日は逆光であった桜が、順光に映え、蕾みも気持ち膨らんだように思えた。イベントが村主催の岐阜県知事を招く観桜会
であることも売店のおじさんの口から判明した。
 観光資源としての桜を見に来る客を遠のけて、ただ酒を飲みにくる連中の為に至便の駐車場を確保する姿勢には少々腹が立
ったが、役所仕事はこういうものだと納得するのに自らの生活の糧が税金に依存している以上時間はかからなかった。
 薄墨桜に別れを告げた後は濃尾地震の震源地であったという地にたてられている地震博物館を見学し、断層地震のエネルギ
ーのすごさを実感した後帰路に就いた。