黒 沢 酉 蔵 翁

       健土建民
     酪農は資源循環型農業の最たるものである
       三愛精神 
     人を愛し、神を愛し、土を愛す(せ)
        
  黒沢先生の教えは上の二つの言葉に代表される。
 生い立ち 
今は常陸太田市になっている世矢村で明治18年3月に生まれる。
家は小作農で、村にあった尋常小学校(4年制)を卒業。
尋常小学校卒業後、隣家の漢学に素養のあった人に暇を見つけて手ほどきを受ける。また涯水義塾という漢学塾へ2年ほど通う。出生の地は水戸光圀が大日本史を編纂した西山郷から数キロほどのところで、明治維新に大きな影響を及ぼした水戸学の学風が地域に根ざしており、この頃から知行合一の精神を身につけ、一国の進路、天下国家を論じたり憂いたりすることを教えられた。
 14歳(明治32年)でいっそうの向学心に燃え上京。神田に上野清が主宰する数学院の学僕として住み込む。
 1年後数学院の先生であった松本小七郎の書生となり、正則英語学校と数学院へ通う。15歳で海軍兵学校を受験するも体格審査で不合格。
 16歳のとき、足尾鉱毒事件(国会議員だった田中正造が議員を辞めて明治天皇に直訴:明治34年12月14日)を知り、事件直後、新橋に投宿中の正造を訪ね鉱毒問題の顛末を聞き、内村鑑三、島田三郎、木下尚江らが発起し河上肇や永井柳太郎らも参加した学生視察団に加わり、視察団帰京後も1週間現地に残り渡良瀬川沿いを歩く。現地の惨憺たる光景に触発され、帰京後学生鉱毒救済会に加わり運動を展開する。
 しだいに政府の干渉が強まり、文部大臣の学校長命令などもあり運動が下火になる。救済運動より問題の根本的解決を図るためには被害農民自身、とくに青年が奮起すべきと、正造の同意を得て現地で5000人ほどの相愛会という団体を17歳から18歳のときに作る。
 熱心な活動を続ける内当局の弾圧を受け館林警察署に逮捕され前橋刑務所に6ヶ月収監される

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 思想形成と田中正造 
 当時は日清戦争に勝ち、日露戦争が始まろうかという頃で、銅資源は不可欠であった。製錬時の毒物は科学技術が幼稚で満足に出来ていなかった。住民は苦しいだろうが富国強兵のため我慢しろというのが政府の方針だった。
 侵略戦争を批判し国を栄えさせるには強兵より治山治水をおこない、国土の尊厳を守るべきとの信念を持つ田中正造に直接師事した4年間に大きな感化を受ける。
 前橋の監獄に入れられているとき鉱毒地救済婦人会と婦人矯風会の会長をしていた潮田千勢子さん聖書を差し入れられ、キリスト教に帰依するきっかけも生まれている。
 裁判は弁護士の今村力三郎氏が担当し当然のごとく無罪になった。その後東京で新井奥遽(おうすい)に教えを受ける。

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 酪農経歴 
 20歳のとき母が亡くなる。父は酒が原因で頼りにならなかったため弟、妹の養育の必要に迫られる。東京で働きながら田中正造のところで天下の志士とつき合うも彼らの生活力の無さに疑問を持つ。
 独り立ちを志し明治38年北海道に渡る。札幌の新聞社社長の紹介で同年8月1日宇都宮牧場の牧夫となる。
 
 牧場主の宇都宮仙太郎は明治18年北海道に渡り、20年にはアメリカに渡りウイスコンシン州立大学で学んで帰国した北海道酪農の草分け

 明治39年12月応召。月寒25連隊入営。義務年限3年を模範兵となり2年で除隊。
 42年札幌メソジスト教会で洗礼。教会で山鼻のリンゴ園主佐藤全七(佐藤貢氏の父)と知り合う。佐藤氏の紹介で山鼻に5反歩の土地と牛二頭を借り黒沢牧場を興す。翌年郷里より弟、妹を引き取る。
 乳業メーカーなどなく牛飼は搾った牛乳を自ら売り歩かなければならない時代で、夏は大八車、冬は天秤棒で配達をする。
 1年半で借りた牛を買い取り、5年で自分の家と17・8頭の牛舎を建てる。15年に(大正12年)建てた家は昭和44年まで住んでいた。

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 デンマークとの出会い 
 明治38年再渡米した宇都宮仙太郎が懇意にしていたウィスコンシン大学ヘンリー総長からデンマークを模範にすべきとする教えを受ける。
 宇都宮氏帰朝後この話を聞いて、デンマークについて研究を重ねる。農業技術、農村の豊かな生活、すすんだ組合制度等ますますデンマークに傾倒する。
 この研究の仲でデンマークのグルントビーが提唱した三愛精神を知る。さらに農民のことは農民自らの力と努力でやり遂げるための共同体精神を学ぶ。
 大正10年から13年まで北海道庁長官を務めた宮尾舜冶にデンマーク方式による北海道農業の振興を進言。実際の経営を5年間契約で実演して貰うためデンマークおよびドイツから酪農家5家族を呼ぶ。
 大正12年末宇都宮氏を中心に北海道畜牛研究会を結成。
 宮尾長官本庁へ移動後デンマーク模範運動に翳り。

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 協同主義の酪連創設 
 関東大震災で外国から震災見舞いの乳製品が大量に届く。また政府が乳製品の関税を撤廃。このため国産乳製品消費が極端に落ち込み練乳会社は授乳拒否を行った。
 この事態に畜牛研究会の中心的メンバーであった佐藤善七氏、空知の酪農家深沢吉平氏等と零細な出資金を募り5千余円を集めて北海道製酪販売組合を大正14年5月17日に設立。会長宇都宮氏、常務佐藤氏、専務黒沢氏。
 会社は営利本位でなく売り先を失った牛乳を引き受け、それを買い取り加工する組合事業を目的とした。
 加工はバター。技師はアメリカから製酪技術を覚えてきたばかりの佐藤貢氏(後に雪印社長)。工場は宇都宮牧場わきの出納農場(宇都宮氏の娘婿)。
 練乳中心であった当時の日本ではバターはほとんど知られていなかったため製品が売れず、販売に東奔西走する。
 黒沢氏令室弟の瀬尾俊三氏(当時東海銀行勤務)を営業担当で迎え自転車で東京都内等売り歩く。
 酪連内で乳代差引きで自己資本を充実さる。
 技術は佐藤氏が良心的に開発製造する、販売は瀬尾氏が誠実一筋に酪農民の製品として売り込む。酪連は後に北海道興農公社、北海道酪農協同会社になり雪印になる。
 雪印は協同主義の見地から、その理想に共鳴した同志と共に創立したもので、単なる営利会社ではないと翁は晩年も語り続けていた。

 黒沢酉蔵・・雪印の祖、北海道酪農民の生活を守るためであった創立のきっかけ、日本で初めて手がけたバター、チーズ、マーガリン等々、開発と品質保持に情熱を傾けた佐藤貢元社長、消費者に酪連が安心できるメーカーであることを言い続け誠意でものを売った瀬尾元社長。
 今の雪印乳業内部がどの様な会社なのか知る由もないが、16歳で田中正造の門を叩いた黒沢酉蔵翁の知行合一・バイタリティに驚嘆するとともに敬服する。

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